河原子八景は、江戸時代末期、当地の史家によって設定され(作者不詳)のち、明治初期には宮田破魔太郎によって、若干選定地の異なるものがつくられました。また土産物として商店から販売されました。
明治37年7月発行の「常陸河原子八景之真図」がある。これには「河原子海水浴場の景」を画面中央に、周囲には区面して新しい和歌を入れた、八景の風景画が配されています。(画家の人物不明)
選定地は江戸末期、景観の原画(選定地から眺めた風景)は、明治37年のもので紹介します。
1. 津の宮の帰帆(烏帽子岩)
昔の風景画 明治37年(1904)
追い風に掛けて真帆の帰りはいつつ津の宮指して帰る釣り船
津の宮は、烏帽子岩の中腹に祀られている。
その烏帽子岩に登り、漁船の帰りを眺める情景は、素晴らしいものがあった。
昔は自然地形を利用した船溜まり的な港であったが、現在は、旧港湾の一部を埋め立て、新港湾が建設されている。
現在の河原子港全景1
現在の河原子港全景2
烏帽子岩に鎮座している津神社
(津の宮)
2. 梶沢の晴嵐(梶沢山)
昔の風景画 明治37年(1904)
青葉そよ風梶沢あたりしのびなきする浜千鳥
梶沢川が海に注ぐ台地で、昔は、若松が見事な枝を伸ばして、風情があった。塩釜神社が祀られていたところでもある。
現在は松林も失われ、駐車場となって、当時の面影がない。
屋根越しに日立の海岸線が続く。
梶沢より日立海岸線を望む
梶沢川が注ぐ梶沢の傾斜地にある森
3. 孫沢の夜雨(要害城跡)
昔の風景画 明治37年(1904)
夜をなつみたどる夜の向の孫沢に浦風そえて雨は降りつつ
昔、要害城が築かれた跡地で、現在は、日立製作所の保養所「要害クラブ」がある。
その南側の桜川(旧、孫沢川)に面した所で、特に、夜の雨は言い知れぬ哀愁を、覚えさせたのである。
要害クラブの入り口
海岸より要害城跡を望む(桜川の右側)
4. 日向の夕照(権現石)
昔の風景画 明治37年(1904)
夕映えの日向の丘に農夫らが残照あびて野良から帰る
河原子小学校山側の日向墓地一帯の丘で、今まさに太陽が西に沈まんとし、日向の森に残照を赤くなげかける頃、野良から帰る人々の、疲れを癒してくれたという。
現在、西の方角は、水田から住宅地に変わり、家が建ち並び風景も一変している。
日向墓地より南西方向の街並みと遠くの山々を望む1
日向墓地より南西方向の街並みと遠くの山々を望む2
日向墓地の入口
5. 田名保の落雁(田名保町)
昔の風景画 明治37年(1904)
田名保で別れて秋風たてば雁のたよりに気がもめる
田名保は、東福寺あたりから、河原子小学校付近までの高台一帯で、ここから西方にひろがる田んぼは、秋風に黄金色の澄みわたる広野であった。元の日立電鉄、河原子駅から日立メデカルセンターの方向に、雁の群れが降り立つ情景をめでたものである。
国道245の歩道橋より日立メディカルセンターの方向を望む
元の日立電鉄、河原子駅付近から日立メディカルセンター方面
6. 那知の晩鐘(河原子中学校の西北)
昔の風景画 明治37年(1904)
汐の煙りも撞きだす鐘も那知の松風夢路は恋し
河原子中学校の山側一帯に、那知山、太子堂、鹿島山などの地名があり、神社、鐘撞堂があったのであろう。すでに晩鐘は消えてなくなり、昔の人々にとって、なつかしい印象であったに違いない。
現在、跡地は、那知山団地が造成され、たくさんの
住宅が立ち並び、場所は、特定できない。
吉五郎台(東多賀町2丁目)より那知山を望む
(写真の中央左付近)
通勤道路、東多賀5丁目交差点より南へ200左側一帯
7. 新地の秋月(新地町)
昔の風景画 明治37年(1904)
秋月を眺めそぞろの二人連れ新地の逢うせたのしさの増す
新地の海岸の高台に、波限不動尊がある。昔は、弘法大師が開基したという、龍王山、不動院、南光寺があった。秋の夜、満月が茫々とし大海原に、映ずるのを眺めるとき、何ともいえぬ風情があった。
鶴ヶ塙から新地の街並みと太平洋を望む
波眼(波切)不動尊
8. 東福寺の暮雪(東福寺境内)
昔の風景画 明治37年(1904)
ながむれば寺院の屋根に音もなく幾重もつれる夕暮れの雪
本宿の高台に無量山、東福寺がある。街並みから眺める風景、特に、雪が降りしきる夕暮れの雪景色に、特色があったので人々はめでたのである。
現在の東福寺、本堂
鉄筋コンクリートの建物
境内より街並みを望む
1. 東福寺
真言宗,豊山派に属する寺院で永正2年(1505)油縄子に開(寛文3年(1663)水戸藩の「開基帳より」)その後、徳川光圀の命により河原子に移った。
大正10年火災にあい焼失。4年後再建されたが、更に昭和46年に耐火式の本堂が建てられた。
本尊は阿弥陀如来。境内には鐘堂・聖徳太子堂・忠魂碑などが建立されている。
なお明治6年、私学校「河海舎」が創立。校舎は本堂を使用した。
のち河原子小学校と改め明治42年現在地に移転するまで多数の生徒が学んだ
2. 天満神社
祭神は、学問の神様として信仰されている菅原道真公をまつり、創立年代は不詳。
以前は北野天神と呼ばれたが元禄8年(1695)徳川光圀の命により河原子村の鎮守となり天満宮と改める。
明治6年村社となり、現在の社名になる.例祭日は4月25日。
なお、境内には須賀神社、秋葉神社、大杉神社など8社の末社がまつられている。
3. 鶴ヶ塙
河原子地区では、一番高い台地(約30m)に位置し、眼下に水平線や美しい海岸が眺望できる場所である。
江戸時代には、この地に郡奉行所と見張所を設置して外国船の警戒にあたったといわれている。
(旧市立河原子幼稚園の跡地)
4. 波切不動尊
南浜海岸の高台に建ち太平洋が一望できる景勝地にもなっている。
創立は不詳であるが、源義家公が奥州征伐の折、祈願されたと伝えられるほど古い歴史を持つ寺で本尊の波切不動尊は高野山から勧請したものである。特に漁師たちの信仰が厚く、漁業が盛んな頃は縁日などには多くの参拝者で混雑した。
縁日は、毎月28日。
5. 烏帽子岩
烏帽子岩は、もともとは地続きの台地であったが、波の侵食に
より約100mにわたって切断され、今日の姿になったもので、昔は岩の周囲にまで海水があり高さもかなりあった。
昭和60年頃の港湾建設の際に埋め立てられ、海浜公園として整備された。烏帽子岩には、津神社が祀られ又中腹には、「藤田東湖」の詩碑が建てられている。
東湖48歳の嘉永6年(1853年)福島県塙町で静養の帰途、門人の神官である宮田篤親を訪れ、その時、津神社の前で詠んだ七言絶句を町の有志により建碑したものである。
6. 河原子台場跡
江戸時代末期、異国船が頻繁に近海に接近するようになり、海岸防備を強化するため、天保7年(1836年)大沼村に大沼海防陣屋が設置され、台場は河原子海岸台地(この付近)に配置された。500刄大砲3門と砲手9名が警備にあたった。
7. 北浜スポーツ広場
北浜スポーツ広場
日立市の観光資源である河原子海岸の一層のイメージアップと交流人口の増加による地域の活性化そして一年を通じて集い楽しめる広場等々を目的に建設され、平成19年9月にオープンした。
敷地7万3千㎡には18ホールを備えたターゲットバードゴルフ場をメーンに、キャッチボール等が出来る自由広場、スケートボード等のニュースポーツ広場、愛犬を遊ばせるドックランの他、940mの遊歩道が整備されている。
なお2007年月 11月に開催された全国健康福祉祭(愛称;ねんりんピック茨城2007)のターゲットバードゴルフの会場として使用され、参加者から好評を得ました
ターゲット・バードゴルフ場
ドックラン